【版主:先前,我有po過《不動智神妙錄》的日文版,有鄭師兄看過之後,提供一份翻譯稿予我,特將此譯文轉錄於此,感謝鄭師兄及其友人愚拙之助。】

 

一、《不動智神妙錄》  日本東海寺澤庵宗彭撰  愚拙譯

1、無明煩惱住地

無明者,晦暗不明,智慧為闇所述。住地者,遲滯之境。

佛法修行可分五十二階位,若於任一階位,心為塵所滯,即稱住地。住,止之意;止,心為塵所取。就兵法而言,於眼劍來之剎那,若心有以劍攻防之意,則心為彼劍所滯,身心失念,即被斬殺,此稱心有所住。

若眼觀劍來,不分別思維,見劍則否,心無所住,亦無欲搶先機而反擊之意,無有少法,是心所住,入彼劍所及之距,狀若敗勢,逆取彼刃而潰敵手,恰如禪宗所云:「還把槍頭倒刺人。」此與無刀流之旨,有同工之妙。

主客交鋒,此方彼方,己劍彼劍,拍子節奏,若於是中,心有所住,則行動緩頓,為彼所斬。若臨敵時有自身想,心則有住,故不應執著自身。

修行初始,心易受身形而緊繃,若心住於劍,則為劍所滯;若心欲搶先機,則為欲搶先機所滯,以要言之,若心有住,則失其念,佛法稱此遲滯之心為無明住地煩惱。

 

2、諸佛不動智

諸佛不動智,雖云不動,非同草木,心遍十方,無有所住,是名不動。

佛法有不動明王尊者,右手持劍左持繩,利齒暴出目怒視,現憤怒相護持法,妨佛法者悉降服,自坐盤石妙不動,普遍十方一切剎,憤怒為相智為體,示現一切諸眾生。

一般凡夫於是中作恐佈想,不敢礙佛,離悟近者,則知此為不動智之體現。去一切迷闇,不動智即明,身現明王心不動。故不動明王者,一心不動,無有住處,但住眾生心想。

若心有住,生種種分別,於分別中,心生黏滯,雖形能動,不能自在。

譬如臨敵十人,以一劍應之,心無所住,即捨即取,以寡敵眾,無有不足。若心有住,於第一人或能取勝,於餘諸敵,則心形黏滯。

觀千手觀音尊者,雖云千手持千寶,若於一手心有住,則餘九百九十九手,不能妙用妙自在。因心無有所住故,千手能隨順自在,以是具妙智不動,能示一身具千手,隨順自在無有礙。如人於林中,心若住一葉,則不見餘葉,行者悟此道,則了千手尊。

無知凡夫者,於身具千手,終難生信解,而起諸誹謗。今得聞少分,不應誹謗亦不執著,以法為本真實觀。

若僅觀外相,而無有心法,猶不應輕率,以慢心攻擊。是故千手道,普門普示現,法門有種種,果位則不異。

自初學至不動智者,即回歸本心,兵法亦如是。

行 者初習劍時,無招無勢,心亦無所住,若見劍來,亦不分別,心無所住,隨機而應。習劍日久,得種種知見,或持劍之法,或心之置所,於臨敵手時,驚覺不自由。 漸學漸參訪,積聚見地心要,於身形劍法,皆迴向初學無有知見時,概因地果位本一如故。譬如算數,自一至十,於進位時,一十相鄰。復觀音樂,十二調性:一壱 越,二斷金,三平調,四勝絕,五下無,六雙調,七鳧鍾,八黃鍾,九蠻,十盤涉,十一神仙,十二上無。

最低壱越,最高上無,初音終音,緊密相鄰,故至高至低,至實至空,大智若愚,無華巧之飾。以是義故,無明住地,不動妙智,本來一如,無心無念,動靜自在,不為煩惱所縛。

譬如田中稻草人形,其相離持弓箭,本無守護作物之心,而鳥獸見之逕自逃散。世間眾道究竟,亦復如是。相雖種種,無住為要,無心無念,如稻草人形。

痴愚無智者,以無智慧故,不能顯鋒;具甚深智者,不露鋒芒;一知半解者,有聰無智,示其小慧,甚為可笑,今出家眾,狀似有道而作佛事,應以為恥。

後論理事修行,理者為尊,其究竟則不取萬物,唯捨一心。然若無事之修行,縱得其理,身形不得自在。有事無理之修行,亦復如是。故理事修行,如車兩輪,不可缺一。

 

3、間不容髮

間不容髮者,兩掌相擊至有音聲,無一髮可容之隙。掌擊之聲鳴,非經思量而後有。於交鋒時,心住彼劍,便顯間隙;若彼劍與自形間,無一髮可容,則彼劍己劍,本無差別。此理與禪宗公案同,佛法以無住為要,呵遲滯之心,稱其為無明煩惱。

 

4、石火之機

此意與間不容髮同,非關快慢,以無住為要。心若有住,則為人所伺;心欲速疾,則為欲速疾之念所滯。江口遊女,有詠歌云:「浮生若夢,為求心止。」此實兵法之要。

若問:「如何是佛?」「佛法心要?」於彼聲將絕未絕之隆,或舉拳,或答之以「一枝梅花」、「庭前柏子樹」。此答非關善惡,無思量處,貴心無住故。若心無住,則不為六塵所滯,此不動心,若經思量,寓於文字,則美言藻飾,亦是煩惱分別。

石 火之機,迅如閃電。譬如有人,呼彼名字,彼不經思量,諾應之,此非經思維之心,即不動智。若聞名字,思維分別,則心為塵所動,是為凡夫。法門雖三萬六千, 以明心為要。未明心之人,心隨業轉。世或有緣覺,自明其心,是事甚難。欲以文字,以明其心,是事亦難。如人飲水,冷暖自知。世間學問,亦論是心,然理事有 礙,不能一如。參佛悟道者,恰如兔角,行未深故。不經一番寒徹骨,焉得梅花撲鼻香?

 

5、心之置所

心若置彼身,則為彼身所取;若置彼劍,則為彼劍所取;若置我劍,則為我劍所取,若置戒備,則戒備所取。

或 曰:「心若置餘所,則為餘所取,故心置丹田,以應敵之機。」以此為極意,然於佛法,此非究竟。心置丹田,為次第法,同孟子所云「求放心」之階。若心置丹田 而棄絕餘事,則心為棄絕餘事所取,不能自在。或問:「若心置丹田,不能得自在,心應置何處?」答曰:「心不應有住,若心住於此,則心失於彼。若心無有住, 捨分別思,身心皆脫落,則全體在用,能遍於十方。」故無有一處,是心所住,此為修行之要。

 

6、本心妄心

本心者,無住之心,全體在用。妄心者,有住之心。本心若有所住,即是妄心。若失本心,不能全用,故不失本心,是事為大。本心如水,妄心如冰,水洗萬物,冰則不能。冰水非異,若冰溶解,則具妙用。心若有住,如水結冰,不能自在,去有住心,即為自由。

 

7、有心無心

有 心者,心有所住,此為妄心。無心者,雖云不動,非同草木,無有所住,不為塵所動,不即一事,不離一事,全體在用。心若有住,則不自由。譬如車輪。若為固 定,則不能轉,心亦如是。心住一處,則見不遍餘色,聞不及餘聲,心有一物故。若心無住,則能隨應,然若有除事之想,則心尚存一物。故不思維,塵自離心,是 為無心。行者修習漸久,火侯漸深,自得箇中三昧。若心汲汲,反不能至。

 

8、水上葫蘆

若捺水上葫蘆,一碰即轉,無有所滯故。行者之心,應如捺水上葫蘆,片刻不留。

 

9、應無所住而生其心

行一事時,若心有事相,即為斯事所滯。故應無所住而生其心。於種種道藝,若心無住而行之,則堪稱達人。因心有執,而有輪迴,生死相伴。譬如賞花,心生讚嘆之時,應無所住。故古歌云:「花不迷人人自迷。」

敬 者,主一無適。持劍揮劍,心住一所,不及旁務。儒家事君,以敬為重,然於佛法,則非究竟,為次第法。主一無適,不及旁務,戒慎恐懼,若以此境為常,日久反 不自由。譬如為繩所縛之貓,捕雀不得自在。若捕不捕,善調練之而去諸縛,則趨應無所住而生其心之趣。行者之心,亦復如是。善以調練,去心散亂,能收能放, 心無所住,自由無礙,方為究竟。以劍而言,心不住彼,不住己,人空、我空、劍空,亦不住空。

昔 鐮倉無學禪師於中國時,為元兵所捕,於斬首之際,作「電光影裡斬春風」偈。無心之境,則電光迅雷之瞬,心無一念,人空我空一切空。心無所住,能斬初春之 風。於斬春風時,亦無劍、手之想。如是忘卻心事,方堪稱高人。譬如綵女妙舞蹈,扇羽蝶形步蓮花,若彼心欲妙扇、步,則心有住有罣礙,如是有心之作為,不堪 極意為下乘。

 

10、 求放心

孟 子云:「求其放心而已。」意為求散亂放逸之心回自身。譬如雞犬逃散而尋回舍。心為身主,故莫放逸。然邵康節云:「心要放。」意為心若有縛,則不自由。心若 放逸,則攝心回身,如蓮花出於淤泥,此為初學之階。其上者,如水精於淤泥中,不以為意,不為泥染,來去隨意。故孟子之求放心至究竟時,則為邵康節之心要 放。中峰和尚亦云:「具放心」、「具不退轉」,即精進而行,無疲憊想。身心性命,若不趨於上乘,則終於下乘

 

11、急水上打毯子,念念不留

置毯於激流之上,潮來浪去,毯不滯一處,心之作用,亦復如是。

 

12、前後際斷

前心不捨,今心殘留,則心有住,捨前心今心之隙,無有一處心停留,是為前後際斷。

 

13、水焦上,火洒雲

都云:「唯願武藏野,今莫火燎原。以此蔽天草,護隱夫與我。」

誰解:「明日朝陽東方起,便是紫花淍零時。」

世間無常,生死如電,行者自重。

 

二、《太阿記》   澤庵宗彭撰

    蓋兵法者,不爭勝負,不拘強弱,不出一步,不退一步。

    敵不見我,我不見敵,撤天地未分陰陽不到處直須得功。

    夫通達人者,不用刀殺人,用刀活人,要殺即殺,要活即活,殺殺三昧,活活三昧也。不見是非而能見是非。不作分別,而能作分別。踏水如地,踏地如水。若得此自由,盡大地不奈他,悉絕同侶。

    遇得這箇麼,行住坐臥,語裡默裡,茶裡飯裡,功夫不息,急著眼窮去窮來,直須見。

月積年久而如,自然暗裡得燈相似。得無師智發妙作用。正與麼時,只不出尋常之中,而超乎尋常之外,名之曰太阿。

此 太阿利劍人人具足,箇箇圓成,明之者,天魔怕之,昧之者,外道欺之。或上手與上手,鋒芒相交,不決勝負者,釋尊拈花,迦葉微笑。如又舉一明三,目機銖兩, 是尋常之靈利也。若夫事了畢人,於一未舉三未明以前,早截三段,況顏顏相對乎。如是人終不露鋒芒,其疾也,電光無通;其短也,急嵐無及。無這般手段,終拈 卻著擬卻著,更傷鋒犯手,不足為好手,莫以情勢卜度,無言語所可傳,無法度樣可習。教外別傳是也。

大用現前不存規則,順行逆行,天下無測,是什麼道理。古人云:家無白澤圖,無如是妖怪。若人練得至這箇道理,一劍平天下,學之者莫輕忽。

《不動智神妙錄》日文原文

無明住地煩悩  

 無明とは明になしと申す文字にて候。迷ひを申し候。住地とは止まる位と申す文字にて候。佛法 修業に五十二位と申す事の候。その五十二位の内に、物毎に心の止まる所を住地と申し候。住は止まると申す義理にて候。止まると申すは、何事に付けても其事 に心を止むるを申し候。貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切太刀を一目見て、其儘にそこにて合はんと思へば、向ふの太刀に其儘に心が止まりて、手前の働 きが抜け候て向ふの人にきられ候。是れを止まると申し候。打太刀を見る事は見れども、そこに心をとめず、向ふの打つ太刀に拍子合せて打たうとも思はず、思 案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度も止めず、其まま付入て、向ふの太刀にとりつかば、我をきらんとする刀を、我をきらんとする刀を、我が 方へもぎとりて、却て向ふを切る刀となるべく候。禅宗には是を還把・鑓頭・倒刺レ人来ると申し候。鑓はほこにて候。人の持ちたる刀を我が方へもぎりとり て、還て相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も 止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ可レ申候。敵に我が身を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。我が身に心を引きしめて 置くも、初心の間、習入り候時の事なるべし。太刀に心をとられ候。拍子合せに心を置けば、拍子合せに心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとら れ候。これを皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿御覧之可レ有候。佛法と引當て申すにて候。佛法には、此止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と 申すことにて候。

 


諸佛不動智

 

 と申す事。不動とは、うごかずといふ文字 にて候。智は智慧の智にて候。不動と申し候ても、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく候。向ふへも左へも右へも、十方八方へ心は動き度きやうに動きな がら、卒度も止まらぬ心を不動智と申し候。不動明王と申して右の手に縄を取りて、歯を喰ひ出し、目を怒らし、佛法を妨げん悪魔を降伏せんとて突つ立って居 られ候姿も、あの様なるが何國の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容をば佛法守護の形につくり、體をばこの不動智を體として、衆生に見せたるにて候。 一向の凡夫は怖れをなして、佛法に仇をなさじと思ひ、悟りに近き人は不動智を表したる所を悟りて、一切の迷を晴らし、即ち不動智を明らめて、此の身則ち不 動明王程に此心法をよく執行したる人は、悪魔もいやまさぬぞと知らせん為めの不動明王にて候。然れば不動明王と申すも、人の一心の動かぬ所を申し候。又身 を動轉せぬことにて候。動轉せぬとは、物毎に留らぬ事にて候。物一目見て其心を止めぬを不動と申し候。なぜなれば、物に心が止り候へば、いろ/\の分別が 胸に候間、胸のうちにいろ/\に動き候。止れば止る心は動きても動かぬにて候。譬へば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、一太刀を受流して、跡に心を 止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働きを缺かさぬにて候。十人十度心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて働きは缺け申間敷候。 若し又一人の前に心が止り候はば、一人の打太刀をば受流すべけれども、二人めの時は、手前の働抜け可レ申候。千手観音とて、手が千御入り候はば、弓を取る 手に心が止まらば、九百九十九の手は皆用に立ち申す間敷、一所に心を止めぬにより、手が皆用に立つなり。観音とて、身一つに千の手が何しに可レ有候、不動 智が開け候へば、身に手が千有りても皆用に立つと云ふ事を、人に示さんが為めに作りたる容にて候。假令一本の木に向ふて其の内の赤き葉一つ見て居れば、残 りの葉は見えぬなり。葉ひとつに目をかけづして、一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は 見えず、一つに心を止めぬば、百千の葉みな見え申し候。是を得心したる人は、即ち千手千眼の観音にて候。然るを一向の凡夫は、唯一筋に、身一つに千の眼が 何しにあるらん、虚言よと破り讒る也。今少し能く知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、佛法はよく一物にして其理を顴す事にて 候。諸道ともに斯様のものにて候。神道は別して其道と見及び候。有の儘に思ふも凡夫、又打破れな猶悪し、其内に道理有る事にて候。此道彼道さま/\〃に候 へども、極所は落着候。扨初心の地より修行して不動智の位に至れば、立帰て住地の初心の位へ落つべき子細御入り候。貴殿の兵法にて可レ申候。初心は身に持 つ太刀の構も何も知らぬものなれば、身に心の止まる事もなし、人が打ち候へば、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。然る處にさま/\〃の事を習ひ、身に 持つ太刀の取様、心の置所、いろ/\の事を教へぬれば、色々の處に心が止まり、人を打たんとすれば、兎や角して殊の外不自由なる事、日を重ね年月をかさね 稽古をするに従ひ、彼は身の構も太刀の取様も、皆心のなくなりて、唯最初の何もしらず習はぬ時の心の様になる也、是れ初と終と同じやうなる心持にて、一か ら十までかぞへまはせば、一と十と隣になり申し候。調子なども、一の初の低き一をかぞへて上無と申す高き調子へ行き候へば、一の下と一の上とは隣りに候。

一 臺越。 二 断金。 三 平調。 四 勝絶。 五 下無。 六 雙調。 七 覺鐘。八 つくせき。九 蠻(打けい)。十 盤渉。 十一 神仙。 十二 上無。 

  づつと高きとづつと低きは似たるものになり申し候。佛法もづつとたけ候へば、佛とも法とも知らぬ人のやうに、人の見なす程の飾も何もなくなるものにて候。 故に初の住地の無明と煩悩と、後の不動智とが一つに成りて、智慧働の分は失せて、無心無念の位に落着申し候。至極の位に至り候えば、手足身が覚え候て、心 は一切入らぬ位になる物にて候。鎌倉の佛國々師の歌にも、

 心ありてもるとなけれど小山田に いたづらならねかかしなりけり

  皆此歌の如くにて候。山田のかかしとて、人形を作りて弓矢を持たせおく也。鳥獣は是を見て逃る也。此人形に一切心なけれども、鹿がおじてにぐれば用がかな ふ程に、いたづらならぬ也。萬の道に至り至る人の所作のたとへ也。手足身の働き斗にて、心がそつともとどまらずして、心がいづくに有るともしれずして、無 念無心にて山田のかかしの位にゆくものなり。一向の愚痴の凡夫は、初から智慧なき程に、萬に出ぬなり。又づつとたけ至りたる智慧は、早ちかへ處入によりて 一切出ぬなり。また物知りなるによつて、智慧が頭へ出で申し候てをかしく候。今時分の出家の作法ども、嘸をかしく可・思召・候。御耻かしく候。

 


理之修行事之修行

 

  と申す事の候。理とは右に申上候如く、至りては何も取あはず、唯一心の捨やうにて候。段々右に書付け候如くにて候。然れども事の修行を不レ仕候えば、道理 ばかり胸に有りて、身も手も不レ働候。事之修行と申し候は、貴殿の兵法にてなれば、身構の五箇に一字の、さま/\〃の習事にて候。理を知りても、事の自由 に働かねばならず候。身に持つ太刀の取まはし能く候ても、理の極り候所の聞く候ては相成間敷候。事理の二つは、車の輪の如くなるべく候。

 


間不レ容レ髪

 

  と申す事の候。貴殿の兵法にたとへて可レ申候。間とは物を二つかさね合ふたる間へは、髪筋も入らぬと申す義にて候。たとへば手をはたと打つに、其儘はつし と声が出で候。打つ手の間へ髪筋の入程の間もなく声が出で候。手を打って後に声が思案して間を置いて出で申すにては無く候。打つと其儘音が出で候。人の打 ち申したる太刀に心が止り候えば、間が出来候。其間に手前の働が抜け候。向ふの打つ太刀と我働との間へは、髪筋も入らず候程ならば、人の太刀は我太刀たる べく候。禅の問答には、此心ある事にて候。佛法にては、此止りて物に心の残ることを嫌ひ申し候。故に止るを煩悩と申し候。たてきつたる早川へも玉を流す様 に乗って、どつと流れて少しも止る心なきを尊び候。

 


石火之機

 

 と申す事 の候。是も前の心持にて候。石をハタと打つや否や光が出で、打つと其のまま出る火なれば、間も透間もなき事にて候。是れも心の止まるべき間のなき事を申し 候。早き事とばかり心得候へば悪敷候。心を物に止め間敷と云ふが詮に申し候。心が止まれば、我が心を人にとられ申し候。早くせんと思ひ設けて早くせば、思 ひ設ける心に又心を奪はれ候。西行の歌集に、世をいとふ人とし聞けばかりの宿、心止むるなと思ふばかりぞと申す歌は、江口の遊女のよしみ歌なり、心とむな と思ふばかりぞと云ふ下句の引き合はせは、兵法の至極に當り可レ申候。心をとどめぬが肝要にて候。禅宗にて、如何是佛と問ひ候はば、拳をさしあぐべし、如 何か佛法の極意と問はば、其の答話の善悪を撰ぶにてはなし、止まらぬ心を尊ぶなり、止まらぬ心は、色にも香にも移らぬ也。此の移らぬ心の體を神とも祝ひ、 佛とも尊び、禅心とも極意とも申し候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にて住地煩悩にて候。石火の機と用すも、ぴかりとする電光のはやきを申 し候。たとへば右衛門とよびかくると、あつと答ふるを不動智と申し候。右衛門と呼びかけられて、何の用にてか有る可きなどと思案して、跡に何の用か抔いふ 心は住地煩悩にて候。止まりて物に動かされ、迷はさるる心を所住煩悩とて、凡夫にて候。又、右衛門と呼ばれて、をつと答ふるは諸佛智なり。佛と衆生と二つ 無く、神と人と二つ無く候。此の心の如くなるを、神とも佛とも申し候。言葉にて心を講釈したぶんにては、この一心、人と我が身にありて、昼夜、善事悪事と も業により、家を誰れ國を亡ぼし、其の身の程々にしたがひ、善し悪しともに心の業にて候へども、此の心を如何やうなるものぞと悟り明らむる人なく候ひて、 皆心に惑はされ候。世の中にも心も知らぬ人は可レ有候。能く明らめ候人は、稀にも有りがたく見及び候。たま/\明らめ知る事も、また行ひ候事成り難く、此 の一心を能く説くとて、心を明らめるにてはあるまじく候。水の事を講釈致し候とても、口はぬれ不レ申候火を能く説くとも、口は熱からず、誠の水、誠の火に 触れてならでは知れぬもの也。書を講釈したるまでにては知れ不レ申候食物をよく説くとても、ひだるき事は直り不レ申候。説く人の分にては知れ申す間敷候。 此の中に佛道も儒道も心を説き候得共、其の説く如く其の人の身持なく候尾心は、明らかに知らぬ物にて候。人々、我が身にある一心本来を篤と極め悟り候はね ば不レ明候。又参学したる人、心持皆々悪敷候。此の一心の明らめやうは、深く工夫の上より出で可レ申候。

 


心の置所

 

  心を何処に置かうぞ、敵の身の働に心を置けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に 心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。我太刀に心を置けば、我太刀に心を取らるるなり。我切られじと思ふ所に心を置けば、切られじと思ふ所 に心を取らるるなり。人の構に心を置けば、人の構に心を取らるるなり。兎角心の置所はないと言ふ。或人問ふ、我心を臍の下に押込めて餘所にやらずして、敵 の働に転化せよと云ふ。尤も左あるべき事なり。然れども佛法の向上の段より見れば、臍の下に押込めて餘所へやらぬと云ふは、段が卑しき向上にあらず。修行 稽古の時の位なり。敬の字の位なり。又は孟子の放心を求めよと云ひたる位なり。上りたる向上の段にてはなし。敬の字の心持なり。放心の事は別書に記し進じ 可レ有・御覧・候。臍の下に押込んで餘所へやるまじきとすれば、やるまじと思ふ心に心を取られて、先の用かけ、殊の外不自由になるなり。或人問ふて云ふ は、心を臍の下に押込んで働かぬも、不自由にして用が缺けば、我心の内にして何処にか心を可レ置ぞや。答へて曰く、右の手に置けば、右の手に取られて身の 用缺けるなり。心を眼に置けば、眼に取られて身の用缺け申し候。右の足に心を置けば、右の足に心を取られて身の用缺けるなり。何処なりとも、一所に心を置 けば、餘の方の用は皆缺けるなり。然らば則ち心を何処に置くべきぞ。我答へて曰く、何処にも置かねば、我心一ぱひに行きわたりて、全體に延びひろごりてあ る程に、手の入る時は手の用を叶へ、足の入る時は足の用を叶へ、目の入る時は目の用を叶へ、其入る所々に行きわたりてある程に、其入る所々の用を叶ふるな り。萬一もし一所に定めて心を置くならば、一所に取られて用は缺くべきなり。思案すれば思案に取らるる程に、思案をも分別をも残さず、心をば総身に捨て置 き、所々止めずして其所々に在て用をば外さず思ふべし。心を一所に置けば、偏に落ると云ふなり。偏とは一方に片付きたる事を云ふなり。正とは何処へも行き 渡つたる事なり。正心とは総身へ心を伸べて一方へ付かぬを言ふなり。心の一処に片付きて一方缺けるを偏心と申すなり。偏を嫌ひ申し候。萬事にかたまりたる は、偏に落るとて道に嫌ひ申す事なり。何処に置かうとて思ひなければ、心は全體に伸びひろごりて行き渡りて有るものなり。心をば何処にも置かずして、敵の 働によりて、當座々々心を其所々にて可・用心・歟。総身に渡ってあれば、手の入る時は手にある心を遣ふべし。足の入る時には足にある心を遣ふべし。一所に 定めて置きたらば、其置きたる所より引出し遣らんとする程に、其処に止りて用が抜け申し候。心を繋ぎ猫のやうにして餘処にやるまいとて、我身に引止めて置 けば、我身に心を取らるるなり。身の内に捨て置けば餘処へは行かぬものなり。唯一所に止めぬ工夫是れ皆修業なり。心をばいづこにも止めぬが眼なり。肝要な り。いづこにも置かぬばいづこにもあるぞ。心を外へやりたる時も、心を一方に置けば、九方は缺くるなり。心を一方に置かざれば、十方にあるぞ。

 


本心妄心

 

  と申す事の候。本心と申すは一所に留らず、全身全體に延びひろごりたる心にて候。妄心は何ぞ思ひつめて一所に固り集りて、妄心と申すものに成り申し候。本 心は失せ候と、所々の用が缺ける程に、失はぬ様にするが専一なり。たとへば本心は水の如く一所に留らず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗はれ不レ 申候。氷を解かして水と為し何所へも流れるやうにして、手足をも何をも洗ふべし。心一所に固り一事に留り候へば、氷固りて自由に使はれ申さず、氷にて手足 の洗はれぬ如くにて候。心を溶かして総身へ水の延びるやうに用ゐ、其所に遣りたきままに遣りて使ひ候。是を本心と申し候。

 


有心之心無心之心

 

  と申す事の候。有心の心と申すは、妄心と同事にて、有心とはあるこころと読む文字にて、何事にても一方へ思ひ詰る所なり。心に思ふ事ありて分別思案が生ず る程に、有心の心と申し候。無心の心と申すは、右の本心と同事にて、固りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて全體に行き渡る心 を無心と申す也。留れば心に物があり、留る所なければ心に何も無し。心に何も無きを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候。此無心の心に能くなりぬれ ば、一事に止らず一事に缺かず、常に水の湛えたるやうにして、此身に在りて用の向ふ時出て叶ふなり。一所に定り留りたる心は自由に働かぬなり。車の輪も堅 からぬにより廻るなり。一所につまりたれば廻るまじきなり。心も一時に定れば働ぬものなり。心中に何ぞ思ふ事あれば、人の云モ事をも聞きながら聞えざるな り。思ふ事に心が止まるゆゑなり。心が其の思ふ事に在りて一方へかたより、一方へかたよれば、物を聞けども聞えず、見れども見えざるなり。是れ心に物ある 故なり。あるとは、思ふ事があるなり。此有る者を去りぬれば、心無心にして、唯用の時ばかり働きて其用に當る。此心にある物を去らんと思ふ心が、又心中に 有る物になる。思はざれば、曇り去りて自ら無心となるなり。常に心にかくすれば、何時となく後は曇り其位へ行くなり。急にやらんとすれば行かぬものなり。 古歌に、

 思はじと思ふも物を思ふなり 思はじとだに思はじきやきみ

 


水上打・胡蘆子・捻着即轉

 

 胡蘆子を捻着するとは、手を以て押すなり。瓢を水へ投げて押せば、ひよつと脇へ退き、何をしても一所に止らぬものなり。至りたる人の心は卒度も物に止らぬ事なり。水の上の瓢を押すが如くなり。

 


應無所住而生其心

 

  此文字を読み候へば、をうむしょじようじやうごしんと読み候。萬の業をするに、せうと思ふ心が生ずれば、其する事に心が止るなり。然る間止る所なくして心 を生ずべしとなり。心の生ずる所に生ぜざれば手も行かず、行けばそこに止る心を生じて、其事をしながら止る事なきを、諸道の名人と申すなり。此止る心から 執着の心起り、輪廻も是れより起り、此止る心生死のきづなと成り申し候。花紅葉を見て花紅葉を見る心は生じながら、其所に止らぬを詮と致し候。慈圓の歌 に、

 柴の戸に匂はん花もさもあらばあれ ながめにけりな恨めしの世や

 花は無心に匂ひぬるを、我は心を花にとどめ てながめけるよ、と身の是れにそみたる心が恨めしと也。見るとも聞くとも、一所に心を止めぬを至極とする事にて候。敬の字をば主一無適と註を致し候て、心 を一所に定めて餘処へ心をやらず、後に抜いて切るとも切る方へ心をやらぬが肝要の事にて候。殊に主君抔に御意を承る事、敬の字の心眼たるべし。佛法にも敬 の字の心有り、敬白の鐘とて、鐘を三つ鳴して手を合せ敬白す。先づ佛を唱へ上げる此敬白の心、主一無適、一心不乱、同義にて候。然れども佛法にては、敬の 字の心は至極の所にては無く候。我心をとられ乱さぬやうにとて習ひ入る修行稽古の法にて候。此稽古年月つもりぬれば、心を何方へ追放しやりても、自由なる 位に行くにて候。右の應無所住の位は、向上至極の位にて候。敬の字の心は、心の餘所へ行くを引留めて遣るまい、遣れば乱るると思ひて、率度も油断なく、心 を引きつめて置く位にて候。是は當座心を散らさぬ一旦の事なり。常に如レ是ありては自由なる義なり。たとへば雀の子を捕へられ候て、猫の縄を常に引きつめ ておいて、放さぬ位にて、我心を猫をつれたるやうにして不自由にしては、用が心のままに成る間敷候。猫によく仕付をして置いて、縄を追放して行度き方へ遣 り候て、雀と一つ、居ても捕へぬやうにするが、應無所住而生其心の文の心にて候。我心を放捨て猫のやうに打捨て、行度き方へ行きても、心の止らぬやうに心 を用ひ候。貴殿の兵法に當て申し候はば、太刀を打つ手に心を止めず、一切打つ手を忘れて打つて人を切れ、人に心を置くな、人も空、我も空、打つ手も打つ太 刀も空と心得、空に心を取られまいぞ。鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて切らるる時に、電光影裏斬・春風・といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走り たると也。無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ、打つ刀も心にはなし、切る人も心はなし、 切らるる我も心はなし、切る人も空、太刀も空、打たるる我も稲妻のぴかりとする内に、春の空を吹く風を切る如くなり、一切止らぬ心なり。風を切ったのは、 太刀に覚えもあるまいぞ、かやうに心を忘れ切って、萬の事をするが上手の位なり。舞を舞へば、手に扇を取り足を踏む、其手足をよくせむ、舞を能く舞はむと 思ひて、忘れきらねば、上手とは申されず候。未だ手足に心止らば、業は皆面白かるまじ。悉皆心を捨てきらずしてする所作は皆悪敷候。

 


求放心

 

  と申すは、孟子が申したるにて候。放れたる心を尋ね求めて、我が身へ返せと申す心にて候。たとへば犬猫鶏など放れて餘所へ行けば、尋ね求めて我が家に返す 如く、心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを、何とて求め返さぬぞと也。尤も斯くなるべき義なり。然るに又、邵康節と云ふものは必要レ放と申し候。 はらりと替り申し候。斯く申したる心持は、心を執へつめて置いては労れ、猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止まらず、染まぬやうに能く使ひこなして、 捨て置いて何所へなりとも追ひ放せと云ふ義なり。物に心が染み止まるによって、染ますな、止まらすな、我が身へ求め返せと云ふは初心稽古の位なり。蓮の泥 に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。心を引きつめては不 自由なるぞ。心を引きしめて果つるなり。稽古の時は、孟子は謂ふ求・放心・と申す心持能く候。至極の時は、邵康節が心要レ放と申すにて候。中峯和尚の語 に、具・放心・とあり。此の意は即ち、邵康節が心をば放さんことを要せよと云ひたると一つにて、放心を求めよ、引きとどめて一所に置くなと申す義にて候。 又具・不退転・と云ふ。是も中峯和尚の言葉なり、退転せずに替はらぬ心を持てと云ふ義なり。人ただ一度二度は能く行けども、又つかれて常に無い裡に退転せ ぬやうなる心を持てと申す事にて候。

 


急水上打・毬子・念々不・停留・

 

 と申す事の候。急にたぎって流るる水の上へ手毬を投ぜば、浪にのつてぱつ/\と止まらぬ事を申す義なり。

 


前後際断

 

 と申す事の候。前の心をすてず、又今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をばきつてのけよと云ふ心なり。是れ前後の際を切って放せと云ふ義なり。心をとどめぬ義なり。

 


水焦上、火酒雲

 武蔵野はけふはなやきぞ若草の妻もこもれり我もこもれり

此の歌の心を誰か。

 白雲のむすばは消えん朝顔の花

 内々存寄候事、御諌可・申入・候由、愚案如何に存候得共、折節幸と存じ、及レ見候處、あらまし書付進じ申候。

  貴殿事、兵法に於て今古無雙の達人故、當時官位俸禄世に聞えも美々敷候。此の大厚恩を寐ても覚ても忘るることなく、且夕、恩を報じ忠を盡くさんことをのみ 思ひたまふべし。忠を盡くすといふは、先づ我が心を正しくし、身を治め、毛頭君に二心なく、人を恨み咎めず、日々出仕怠らず、一家に於ては父母に能く孝を 盡くし、夫婦の間少しも猥になく、礼義正しく妾婦を愛せず、色の道を絶ち、父母の間おごそかに道を以てし、下を使ふに私のへだてなく、善人を用ゐ近付け、 我足らざる所を諌め、御國の政を正敷し、不善人を遠ざくる様にするときは、善人は日々に進み不善人もおのづから主人の善を好む所に化せられ、悪を去り、善 に遷るなり。如レ此君臣上下善人にして、欲薄く奢を止むる時は、國に寳満ちて、民も豊に治り、子の親をしたしみ、手足の上を救ふが如くならば、國は自ら平 に成るべし。是れ忠の初なり。この金鐵の二心なき兵を、以下様々の御時御用に立てたらば、千萬人を遣ふとも心のままなるべし。則ち先に云ふ所の千手観音 の、一心正しければ千の手皆用に立つが如く、貴aの兵術の心正しければ、一心の働き自在にして、数千人の敵をも、一劔に随へるが如し。是れ大忠にあらず や。其の心正しき時は、外より人の知る事もあらず、一念発る所に善と悪の二つあり。其の善悪二つの本を考へて、善をなし悪をせざれば、心自ら正直なり。悪 と知り止めざるは、我好む所の痛あるゆゑなり。或は色を好むか奢気随にするか、いかさま心に好む所の働きある故に、善人ありとも、我が気に合はざれば善事 を用ひず、無智なれども、一旦我が気に合へば登し用ひ好むゆゑに、善人はありても用ゐざれば無きが如し。然れば幾千人ありとても、自然の時、主人の用に立 つ者は一人も不レ可レ有レ之。彼の一旦気に入りたる無智若輩の悪人は、元より心正しからざる者故、事に臨んで一命を捨てんと思ふ事、努々不レ可レ有。心正 しからざるものの主の用に立ちたる事は、往昔より不・承及・ところなり。貴殿の弟子を御取り立て被レ成にも箇様の事有レ之由苦々しく存じ候。是れ皆一片の 数寄好む所より其の病にひかれ、悪に落ち入るを知らざるなり。人は知らぬと思へども、微より明らかなるなしとて、我が心に知れば天地鬼神萬民も知るなり。 如レ是して國を保つ、誠に危き事にあらずや、然らば大不忠なりとこそ存じ候へ。たとへば我一人、いかに矢猛に主人に忠を盡くさんと思ふとも、一家の人和せ ず、柳生谷一郷の民背きなば、何事も皆相違仕るべし。總て人の善し悪しきを知らんと思はば、其の愛し用ゐらるる臣下又は親しみ交はる友達を以て知ると云へ り、主人善なれば其の近臣皆善人なり。主人正しからざれば臣下友達皆正しからず。然らば諸人みななみし、隣國是を侮どるなり。善なるときは諸人親しむとは 此等の事なり。國は善人を以て寳とすと云へり。よく/\御體認なさるべし。人の知る所に於て私の不義を去り、小人を遠ざけ、賢を好む事を急に成され候は ば、いよ/\國の政正しく、御忠臣第一たるべく候。就中御賢息御行跡の事、親の身正しからずして子の悪しきを責むること、逆なり。先づ貴殿の身を正しく成 され、其の上にて御異見成され候はば、自ら正しくなり、御舎弟内膳殿も兄の行跡にならひ、正しかるべければ、父子ともに善人となり、目出度かるべし。取る と捨つるとは義を以てすると云へり。唯今寵臣たるにより、諸大名より賄を厚くし、欲に義を忘れ候事、努々不レ可レ有候。貴殿亂舞を好み、自身の能に奢り、 諸大名衆へ押して参られ、能を勧められ候事、偏に病と存じ候なり。上の唱は猿楽の様に申し候由、また挨拶のよき大名をば、御前に於てもつよく御取り成しな さるる由、重ねて能く/\御思案可レ然歟。歌に、

 心こそ心迷はす心なれ、心に心心ゆるすな。

(岡山研同編著『柳生論語』昭和十六年刊を底本としました)

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