國井善彌(1894年1月20日 - 1966年8月17日)福島縣出生,是鹿島神流第18代宗家。

  國井善彌在多次與其他流的比試當中,無論是空手或是劍棒等,都從未敗過。因此,有著「現代武藏」之稱(又稱為昭和的宮本武藏)。

  不過,國井善彌最令人稱道的一戰,是他與美國海軍教官的一場比試。在二戰(日本人稱為大東亞戰爭)過後,GHQ的美國海軍刺槍術(銃劍術)教官 提出與日本武道比賽的要求。由於事關日本武道的名譽問題,因此決不能輸。不過,由於美國海軍教官不僅熟練刺槍術,其徒手格鬥亦不在話下。因此,必須找尋同 時兼善的實戰高手。在廣求高手之後,應徵出戰的,即是國井善彌。

  比賽當天,國井善彌手持木刀,而美國海軍教官手持刺槍。比賽一開始,國井善彌並未攻擊對手,而是閃過對方攻擊之後,即用木刀壓制對手到無法反擊 的狀態。面對壓倒性的實力差距,美國海軍教官十分乾脆地認輸了。此戰,國井善彌不僅保住日本武道的名譽,同時也進一步奠定其「生涯無敗」的地位。

 

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註1:聯合國軍最高司令官總司令部(日語:れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ;英語:Supreme Commander of the Allied Powers,簡稱SCAP)指的是第二次世界大戰結束,日本戰敗後,根據波茨坦宣言,盟軍(事實上只有美軍)於日本進行事實管理的總司令部。在日本通稱 為「GHQ」。1945年8月28日,第一批盟軍於橫濱登陸,並設立盟軍本部;30日,盟軍最高司令官麥克阿瑟也搭機抵達日本。9月2日,日本正式簽署降 書。隨後到1952年4月28日期間,日本政府僅實行所謂「間接統治」,主要大權均操在聯合國軍最高司令官總司令部手中。但是沖繩諸島等領土,則遲至 1972年才交還日本。

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  國井 善弥(くにい ぜんや 1894年1月20日 - 1966年8月17日)は武術家。鹿島神流第18代宗家。福島県出身。

  幾多の他流試合を相手の望む通りの条件で受けながらも勝ち続け、生涯不敗であったという。その圧倒的な武の実力から、「今武蔵」(昭和の宮本武蔵という意味)という異名で呼ばれた。

  剣や棒など武器を取らせても、武器を持たない柔道家や空手家から挑戦を受けても、國井は戦う前から勝負が決しているかのごとく一本を取るのが常であった。武道界からは異端視されたが、日本古流武術の強さを体現した武人だった。

  弟子に、關文威(第19代師範家)、稲葉稔(明治神宮至誠館々長)らがいる。

  大東亜戦争の終戦後、GHQから米海兵隊の銃剣術の教官と日本の武道家との試合の申し出があった。日本武道の誇りと名誉がかかった一戦であり、 おいそれと負けるわけにはいかない。このため対戦する武道家は実戦名人であることが求められた。また、米海兵隊の銃剣術教官は徒手での格闘術も訓練されて いるため、剣術のみではなく武器を持たない場合でも強いことが求められた。この条件に、政治家(国務大臣)であり武術家(弘前藩伝の小野派一刀流剣術・神 夢想林崎流居合・直元流大長刀術の宗家)でもあった笹森順造は、武道家の間では異端とされていた國井善弥に白羽の矢を立てた。國井は木刀を持って銃剣を 持った米海兵隊教官との立会いに臨む。試合が開始されるやいなや國井は相手の攻撃を見切って木刀で制し身動きの取れない状態へと持ち込む。これは圧倒的な 実力差であり、米海兵隊教官に負けを認めさせるに十分であった。この試合が実施された当時、GHQは武道が軍国主義の発達に関連したと考え、武道教育禁止 の措置を取っていたため、後年、この試合が武道教育禁止の措置の解除のきっかけとなったという誤解が広まったが、この試合の結果と武道教育禁止の措置の解 除は関係がない。ただし、日本武道の名誉をかけた一戦に実戦名人として國井善弥が選ばれたことは特筆すべき点である。

  國井善弥は修業時代、新陰流免許皆伝の佐々木正之進という先生の内弟子になった。内弟子になった次の日から、佐々木は國井に「何を持って来い、 何もついでに。」という指示を出す。「何」と言われてもまったく見当が付かないが、これは相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修業だったの だという。師の命令は次第に「何を何して、何は何々」と曖昧さを増すようになったが、國井はかなりの確率で師の意思を掴むことができるようになった。この 修業が立会いにおいて、相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたという。
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鹿島神流(かしましんりゅう)とは、日本の武術の流派。

剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術を含む武術である。昭和時代に「今武蔵」と謳われ生涯不敗であった國井善弥が有名である。

松本備前守を流祖とし、國井家に代々伝わった家伝の武術であるという。だが、確実なのは、國井善弥が鹿島神流第18代を名乗った以降のみである。

國井善弥は若い頃に馬庭道場の内弟子となり馬庭念流を修行しており、鹿島神流剣術の構えや技に馬庭念流に似たものが多い。
國井家に伝わる伝承では、第12代宗家の國井大善は直心影流剣術を修行し、直心影流剣術の「法定之形」をもとに鹿島神流剣術の「基本太刀」を編み出したと伝えられている。
2.を裏付けるように、國井大善の前代にあたる鹿島神流の第11代師範家までの系譜が直心影流剣術と一致する。(これについて國井善弥は、第2代師範家の上泉伊勢守や第7代師範家の山田一風斎らが鹿島神流を学んだことを秘して新陰流や直心影流を開いたためとしている)
國井善弥は栖原邦泰にも師事して馬庭念流を修行しているが、その際、栖原が開いた妙道流柔術も学んだ。そのためか鹿島神流柔術の技は妙道流柔術に似たものが多い。
鹿島神流柔術の基本である「霊気の法」は大東流合気柔術や合気道の「合気上げ」に非常に似ている。
と いう点により、直心影流起源の(國井大善が編み出した?)武術が國井家に伝承されていた可能性もあるが、現在の鹿島神流の内容は國井善弥が修行してきた馬 庭念流剣術と妙道流柔術を核に、國井善弥がさらに技法を加えて体系付けたと思われる。(馬庭念流とは飽くまで見た目だけ似ているので、この記事は実際に習 得した者の言質ではない。)


[編集] 剣術

[編集] 基本太刀
袈裟斬り(けさぎり)
足払浮舟(あしばらいうきふね)
斬割(きりわり)
割突(わりつき)
位太刀(くらいだち)

[編集] 裏太刀
面太刀付(めんたちつけ)
袈裟太刀付(けさたちつけ)
胴太刀付(どうたちつけ)
下段籠手止(げだんこてどめ)
虚太刀籠手斬(きょたちこてぎり)
続飯付(そくいづけ)
見切剣中体(みきりけんちゅうたい)
直体中剣(なおりたいちゅうけん)
袈裟斬袖摺(けさぎりそですり)
燕飛剣(えんびけん)

[編集] 相心組太刀
組太刀斬止(くみたちきりどめ)
組太刀正眼(くみたちせいがん)
組分割突(くみわかれわりづき)
組太刀返籠手(くみたちかえしごて)
組分倒打(くみわかれたおしうち)

[編集] 実戦組太刀
突返(つきかえし)
斬割(きりわり)
続飯太刀(そくいたち)
早抜不動剣(はやぬきふどうけん)
袖摺正眼(そですりせいがん)
下段籠手打 (げだんこてうち)
燕返(つばめがえし)
逆袈裟(ぎゃくけさ)
鍔競倒(つばぜりたおし)
巻太刀追込(まきたちおいこみ)

[編集] 合戦太刀
先手突上(せんてつきあげ)
先手返小手(せんてかえしごて)(先手正眼破?)
先手突返(せんてつきかえし)
先手柄倒(せんてつかだおし)
先手燕飛剣(せんてえんびけん)
上段抜打(じょうだんぬきうち)
下段抜打(げだんぬきうち)
不動剣(ふどうけん)(不動倒し?)
袈裟潰(けさつぶし)
無二剣(むにけん)

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資料來源:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E6%B5%81

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%95%E5%96%84%E5%BC%A5

http://www.kashima-shinryu.jp/index-j.html

http://zh.wikipedia.org/wiki/GHQ

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