塚原卜傳之墓
塚原卜傳,又名塚原高幹(つかはら たかもと)、出生於延德元年(1489年)卒於元龜2年2月11日(陰暦)(1571年3月6日))、是日本戰國時代有名的劍術家。其流派為天真正傳香取神道流,並同時被尊奉為新當流(鹿島新當流)的開山祖師。
他是鹿島神宮的神官住持卜部覺賢(吉川覺賢)之子,出生在常陸(現今茨城縣)的鹿島。幼名朝孝。之後成為塚原安幹的養子。
從其生父那習得鹿島古流(鹿島中古流)、養父之處習得天真正傳香取神道流。此外又向松本備前守習 得秘技「一之太刀」(亦有卜傳自創招式的說法)。之後至各國旅遊修行、磨練劍術。一生出戰場卅七次,真劍比武十九次,木劍比試無數,斬敵有名武將首級廿餘 名,實斬敵人達二百廿二名,僅受箭傷六處之外,從未受任何刀劍之傷。其中最有名的是在川越城與梶原長門以真劍對決,在裁判的一聲「開始」令下,两人同時躍 進,但占得先機卜傳,僅一刀即把長門當頭劈斃。
雖然如此,卜傳绝非是個嗜殺生性之人,關於這一點,倒有一段非常有名的軼話有一天塚原從將軍府回 家鄉時,為抄近路搭小舟藉水運而行,當他進舟欲坐下時,他的配刀不小心碰觸另一個武士的劍鞘。因此事為武人之大忌,對方怒容滿面吼叫說:「士可殺不可辱! 不如在此筆劃一下定個高低。」邊說邊欲拔刀咄咄逼人。雖然塚原向他頻頻道歉,但未能使他消氣。不得已接受對方無理的挑戰,就說:「在舟中比劍恐怕會傷人, 不如把小舟靠近岸邊跳下陸地後,盡情廝殺一番如何?」怒氣未斂的武士,立即要求船夫把小舟撐到不遠的河岸。快到達陸地河岸時,那名猴急的武士從舟上躍到沙 灘上,拔起刀來準備砍殺。說時遲那時快,塚原趁那名武士跳下去的一剎那,搶下船夫的竹篙默不作聲地趕緊把小舟撐離河灘,讓那名武士在沙灘上跳腳怒號。
舟上的人看到這一幕,不由得鼓掌起來誇獎塚原的機智,懲罰那名不講理的武士。其中有一名乘客問塚原說:「閣下這一招屬於何流派的劍道呢?」塚原撐著船不 慌不忙地回答說:「這叫做『無手勝流』(即以徒手能打贏對方),這是我一貫的技倆。」舟上又掀起一陣歡聲雷動拍手叫好。
足利將軍義晴、義輝、義昭等,慕其名,召出以賓客禮待,並從其習劍。一代霸主,甲州的武田信玄也曾召聘其為武田家之諸將領教授劍法,其中最為傑出者為山本勘助晴幸。
後 來,卜傳再巡歷諸國作武者之修行,其行列含弟子、隨從等多達百餘人之眾,浩浩蕩蕩,有如大名(俸祿一萬石以上者稱為大名,亦即諸侯,或稱藩主,戰國時代有 三百七十位,德川時代剩二百六十位)行列,其弟子中除上述之外,有北畠具敎、師岡一羽、齋藤鬼坊、真壁道無、松岡則方等,而具有大名成份的弟子有細川藤孝 (幽齋)、結城正勝、佐野天德寺、佐野裕願寺等,而其中獨獲其傳授「一之太刀」秘傳者為北畠具敎。
「一之太刀」是塚原卜傳的秘技,並終其一生,只給北畠具敎。有個故事是這樣的,塚原卜傳有子三 人,劍技皆在伯仲之間,卜傳為了決定該由誰來繼承其真傳,而做了一次試驗。有一天,卜傳在蚊帳上擱一小木箱,而人在帳內分別喊三子入。首喊長子彥四郎,彥 四郎因心境非常平靜地進來,所以周遭的光景也皆可一覽無遺,自然也就能夠發現帳上的木箱,遂很平靜地取下它後,纔掀帳入內。
次喊次男的彥五郎,慌 慌張張進來的他,剛一掀帳,木箱遂直掉了下來,好個彥五郎,將身一移,乾淨俐落地把它給接住。
最後輪喊三男的彥六,隨隨便便進來的他,同樣在掀帳的同時, 木箱直往他頭上掉,剎那「嘿」地一聲,隨著裂帛似的氣合,他的腰刀閃電般地一揮,當堂把木箱劈成兩半於空中,考驗的結果,卜傳把他的真傳授予長男的彥四 郎。
他說:「三男的快劍,雖讓人看來是夠精妙華麗,然而對方只是個箱子,如果它是人的話,而且又是個高強的劍客的話,你早就被對方一刀斬殺了,次男同樣也 為自己身手的不凡而充滿了自信,因此也失去了冷靜的心境,而彥四郎雖同樣擁有高強的身手,卻能夠冷靜地觀察周遭的景況,而事先去避開危險,越是能夠不拔劍 的武道,才是真正高次元的武道。」
然而彥四郎雖得乃父之真傳,但秘刀的「一之太刀」,由於只能單傳,且早已傳予伊勢的國司-北畠具敎,所以彥四郎終於沒能得「一之太刀」的秘技。可見卜傳傳技之嚴格
〈剣聖の面影 塚原卜伝の生涯〉塚原卜伝顕彰会,石崎印刷,2005年
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【附錄】
由於都是日文,我看不太懂,請各位慢看
塚原卜伝は、常陸国鹿嶋郡塚原村の人、父を新左衛門といい、祖父を土佐守平安幹(やすもと)と云った。
安幹兵法を香取の飯篠長威に学び、新左衛門に伝う、その頃鹿嶋氏の家に杉本(松本)備前守尚武という者があって、長威の弟子で剣法の蘊奥を究めていたが、新左衛門もこの人にも教えを受けたのである。
卜伝は父と祖父との業を継ぎ、十七歳の時、京の清水寺に於て太刀 を以て仕合して敵に打ち勝ってからその名が世に知られはじめた、或時、近江の蒲生の家で、屏風の側を行き過ぎた時、その陰から躍り出でつつ刀をもって打懸 かる者がある、卜伝飛びのき様に脇指抜くと見えたが、その者は既に討たれて死んだ、これは落合虎右衛門という者であって、京に在りし頃、卜伝と木刀の仕合 いをして負けた事を怨みての仕業であった、この時、卜伝は三尺計りの太刀をさしていたが、間合いを慮って脇指を用いたのだと云った、卜伝は、
「刀は人の長さによりて長さ短さを定めるがよろしい、鍔の膀を越すようなのは指してはいけない」
と云っていたが、平常は二尺四寸の刀を帯び、事ある折は三尺計り の刀であったそうである、時により処にもよりて長刀をも槍をも用いたが、槍はどういうのを用いたか、長刀は必ず刃の二尺四五寸なのを持った、ト伝戯れに一 尺四五寸の脇指を片手に抜き持っている処を人が大太刀で力の極み切っても打ってもいささかも動かなかったそうである。 (塚原卜伝)
ト伝は武州川越に於いて下総の住人梶原長門という薙刀の名人と勝 負を決した事がある、この長門は刃渡り二尺四五寸の長刀を以て飛んでいる燕を斬って落し或は薙、鴨などの地にあさるを自在に薙ぎ倒すぱかりか切り籠りゃ放 し打など、幾度となくやって、あらかじめ声をかけて置いて相手の左手、右手、それから首と言葉通りに敵を斬り落す手際の鮮かなことは身の毛もよだつ程で あった、仕合のことを聞いた門人は、さすがにこの時ぱかりは心配の余りト伝にこの仕合を思いとまらせようと諌めた、卜伝は、
「道理を知らぬ者共かな」
と弟子共を叱って云うよう、
「鵬(もず)という鳥がある、自分より四五倍も大きい鳩を追廻すほ どの猛鳥だが『えっさい』という鳩の半分に足らぬ鳥に出合うと木の葉笹陰に隠れて逃げるものだ、その長門という男は、まだ己れ以上の名人に出合った事が無 いのだろう、卜伝に於ては薙刀は常に使わないけれども、兵法というものは皆同じ理法のもので、薙刀はもとより太刀間も二尺も三尺も遠くにあるのを切る為の もの故、刃が長くなければ用をなさぬものである、三尺の太刀でさえ思う図に敵は打てぬものを、一尺許りの小薙刀で六尺外の人の左右の手を二度に斬り落すな んどという事は鳥獣の類か、さもなけれぱ武術を知らぬ奴を相手としたからだ、九尺一丈の槍で突き抜かれてさえ、当の太刀は相手を打てるものだ、まして薙刀 などで突かれたからとて何程の事がある」
斯くてト伝は二尺八九寸の太刀を指して仕合の場に赴いた。
梶原長門は例の小薙刀を携えて来合わせたが、両人互に床几を離れて近寄ると見る間に、薙刀は鍔もと一尺許り余して斬り落され、長門はただ一刀に斬り伏せられた。 (塚原卜伝)
塚原卜伝が下総の国にいた時分、梶原長門という薙刀の上手がト伝に仕合いを申込んだ、卜伝の門人共は常とちがって、これを甚だ怖れあやぶんでいた、というのは、長門は聞ゆる上手なる故、殊に薙刀のことであるから
(俗に薙刀と太刀とは二段の差があるといわれる)流石の我が師も勝負のほども如何と心配してまず師のト伝の許に行き、
「こんどの仕合、如何思い給うや承り度候」
と、いうと、卜伝は格別気にもとめない体で、
「長刀と雖も身は二尺に過ぎない、我が刀は三尺あるによって何のあやうきことがあろう」
と、いった、さてその日になって見ると、かねてその評判を聞き伝えたものだから見物が雲霧の如く集って各々勝負如何と固唾を呑んで見物したが、卜伝は前日の言葉の如く長門が左の腕を斬って落して勝を制した。
このト伝は門人が多きのみならず、国々に豊富の弟子共が多くつきまとっていたから、かりそめに処を移すにも、鷹を据えさせ、馬を牽かせなどして、外より見ると、さながら大名のような体で往来していたということである。 (撃剣叢談)
塚原卜伝は、常州塚原の人で父を塚原土佐守といい、飯篠長威斎に 従って天真正伝を伝えた。卜伝はその後野州へ行って上泉伊勢守に学んで心要を極め、後京都に至って将軍足利義輝及び義昭に刀槍の術を授けたのであるが、諸 大名諸士卜伝に従って武術を習うものが多かった、伊勢の国司、北畠具教卿の如きはト伝の門下として、最も傑出していた一人で、卜伝はこれに「一の太刀」を 授けた。松岡兵庫助というのも、その道の妙を得たが後家康にこの「一の太刀」を授けて褒賞に与ったことがある。
このト伝の太刀の極意、「一刀」を使い出したものは松本備前守である、この人は鹿島香取の仕合に槍を合すこと二十三度、天晴れなる功名の首数二十五、並の追首七十六、二度首供養をして結局首一つ余ったということである。
或る時卜伝が或る上手の兵法使いに仕合をしかけられて承知いたしたと返事をし、それから門下の者共にこんど相手の兵法人がこれまで数度木刀で仕合に勝った作法と様子を尋ねて見ると、
「さ様でございます、構えは左立ちで、さて勝負に相成ると右か左か、必ず片手で勝をとるという仕方でございます」
それをト伝が聞き取ると、どういうつもりか相手の方へ使を立てて、
「左立ちの片手勝負というものは勝っても卑怯である故に御無用になされよ」
と、十度びも使を立てて云ってやった処が、先方から十度びながらの返事、
「左立ち片手で討つのを嫌と思召《おぼしめ》しになるならば、勝負をしない前に貴殿の負とせられるがよろしい」といって来た。
が、ト伝はそれを聞き捨てにして仕合に出ながら、
「見て居られよ、拙者の勝利は疑いなし」
といって立ち合うや否や相手の額から鼻、唇を打ち裂いてト伝が勝利を占めた。 (本朝武芸小伝)
卜伝は諸国修業の後に故郷の常陸に帰り、いよいよ最後の時にその 家督を立てようとして三人の子供を呼び、それを試すことにした、まず、木の枕をとってのれんの上に置き、第一に嫡子を呼ぶと、嫡子は見越しの術というのを 以てそれを見つけその木枕をとって座に入って来た。次に次男を呼ぶと次男が帷を開いた時に木の枕が落ちて来た、そこで飛びしさって刀に手をかけてから謹ん で座に入って来た。
こんどは第三男を呼ぷと、三男はいきなりのれんを開く途端に木枕が落ちて来た。それを見るより刀を抜いて木枕を勇ましく斬り伏せて座へ入って来たので、卜伝が大いに怒って木の枕を見てそんなに驚く奴があるかと叱りつけた。
そこで嫡子の彦四郎の挙動が最も落ちついていたので、それに家督を譲ることになったが、その時云うよう、
「父が一ノ太刀を授けたのは天下にただ一人しかない、それは伊勢の国司北畠具教卿である、その方行って具教卿に就いて習え」
と云い終って死んでしまった、つまり彦四郎は家督は譲られたけれ ども一ノ太刀は終に伝えられなかったのである、そこで、父の遺言に従って遥々伊勢の国へ出かけたが、自分が長子でありながら伝えられない「一ノ太刀」は如 何なるものか教えていただきたいと云いにくくもあり云っては具教卿から拒絶されるか知れないということを慮って、わざと国司に向って言った。
「拙者も父のト伝から一ノ太刀を譲られましたがあなた様へ父の御伝授申上げたのと異同を比べて見とうございますが」と云った。
具教卿がそれを聞いて「一ノ太刀」の秘術を見せた為に彦四郎はそれを知ることが出来たということである。 (本朝武芸小伝)
ト伝が、江州矢走(やぱせ)の渡しを渡ることがあって、乗合六七人と共であった、その中に三十七八に見える逞しい壮士がいた、傍若無人に兵法の自慢をし天下無敵のようなことをいう、卜伝は知らず顔に居眠りをしていたが、遂に余りのことに聞き捨てにしかねたと見え、
「貴殿もなかなかの兵法家のようでござるが、われ等も若年の時より型の如く精を出して兵法を稽古したけれども、今まで人に勝とうなどと思ったことなく、ただ人に負けぬように工夫する外はなかった」という、右の男これを聞いて、
「やさしいことを云われるが、して貴殿の稽古された兵法は何流でござる」と尋ねる。
「いや、何流というほどのことはござらぬ、ただ人に負けぬ『無手勝流』というものでござる」
と答えた、右の男がいうのに、
「『無手勝流』ならばそなたの腰の両刀は何の為でござる」
卜伝これを聞いて、
「以心伝心の二刀は敵に勝つ為にあらず我慢の鋒を切り、悪念の兆しを断つ為のものでござる」
右の男それを聞いて、
「さらば貴殿と仕合を致そうに、果して手が無くてお勝ちにならしゃるか」
と、卜伝が曰く、
「されば、我が心の剣は活人剣であるけれども、相手をする人が悪人である時にはそのまま殺人剣となるものでござる」
右の男、この返答を聞いて腹に据えかねて船頭の方へ向き、
「如何に船頭、この舟を急いで押し着けよ、陸へ上って勝負をする」と怒り出した。
その時卜伝は、ひそかに眼をもって乗合と船頭に合図をして云うことには、
「陸は往還の巷であるから、見物が群がるに相違ない、あの辛崎の向うの離れ島の上で人に負けぬ無手勝を御覧に入れよう、乗合の衆何れもお急ぎの旅にて定めて御迷惑の儀と存ずるが、あれまで押させて御見物されたい」
といって船を頻りに押させて、さて彼の島に着くとひとしく自慢男は、こらえず、三尺八寸の刀をスルリと抜き、岸の上に飛び上り、
「御坊の真向、二つにいたしくれん、急ぎ上り給え」
と、ののしり立つとト伝がそれを聞いて、
「暫く待ち給え、無手勝流は心を静かにせねばならぬことでござる」
といって、衣を高くからげ、腰の両刀を船頭に預け、船頭から水樟を借りうけ、船べりに立ち、その水悼で向うの岸ヘヒラリと飛ぶかと見ると、そうではなくて樟を突張って船を沖へ突出してしまった。島へ上陸した男がこれを見て、
「どうして貴殿は上陸なされぬのじや」
と足ずりをする、卜伝これを聞いて、
「どうしてそんな処へ上れるものか、くやしくば水を泳いでここへ来給え、一則授けて引導をしてあげよう、我が無手勝流はこの通り」
と高声に笑ったので、彼の男は余りの無念さに、あししきたなし、返せ、戻せといったけれども、更に聞き容れず、湖水一丁ばかり距ててから扇を開いて招きつつ、
「この兵法の秘伝を定めて殊勝に思われるのであろう、執心ならば重ねてお伝え申さん、さらば」
と云い捨てて山田村にぞ着きにける。 (本朝武芸小伝)
塚原卜伝は前原筑前のように奇特のことはなかったけれども、諸国 を兵法修行して廻る間大鷹を三羽も据えさせ、乗り替えの馬を三匹も曳かせ上下八十人ぱかり召し連れて歩いた、斯様な修行振りであったから皆々一方ならず尊 敬するようにもなった、卜伝などは兵法の真の名人というべきである。
山本勘助或はなみあい備前等は長刀を以て我は一人敵は二百人ばかりあるを七八十人斬って、その身は堅固に罷り退いたことがある。
小幡上総守は兵法を三つに分けて第一を兵法使いといい、これは最 初の前原筑前の如きを称し、第二は塚原卜伝の如きを兵法者といって名人に数え、第三の山本勘助、なみあい備前守を兵法仁と称している、これは実際の兵法に かけては上手でも名人でもないけれども、その臨機応変の働きによって名人以上の手柄を立てたものを云っているらしい。
名人のト伝は一つの太刀、一つの位、一太刀と云って太刀一つを三段に分けて極位としていたそうである。 (甲陽軍鑑)
塚原卜伝が十七歳の時、京の清水で真剣の仕合をしてより、五畿七 道に亘って真剣勝負十九カ度、軍の場を踏むこと三十七度、木剣の仕合等は無数であるが、疵は一力所も被らない、ただ矢疵は六カ所あったが敵の物の具がわが 身に当ったことはない、戦場仕合を合せて敵を討取る事二百十二人ということである。
卜伝は何事にても人の芸能の至り顔をするを見ては、いまだ手をつかい申すといったそうである。 (武道百首奥書)
関八州古戦録には、卜伝が一つの太刀の極意を伝えたのは伊勢国司 北畠権中納言具教の外、京都で細川兵部大輔藤孝にも伝えたとある、一の太刀というのは、凡そ一箇の太刀の中三段の差別あり、第一一つの位とて天の時なり、 第二は一つの太刀とて地の利なり、是にて天地両儀を合比し第三一ツの太刀にて人物の巧夫に扶く結要とす当道心理の決徳なり、とある。
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